金の斧と銀の斧というのは一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。物語はどういうものだったのか、もう一度復習しながら解釈について考えていきたいと思います。
昔子供の頃に学んだ時と感じることが違ったり、新しい発見があるかもしれません。
目次
金の斧の物語と教訓
ある男が湖のそばで木を切っていて、手が滑って斧が湖に落ちてしまいました。斧がなければ木を切ることができません。男は湖を眺めながら嘆いていました。
すると湖からヘルメス(1)が現れました。嘆いている理由を男に聞き湖の中へ消えていきました。再び出てきたとき手には黄金に輝く金色の斧をもっていて「これがお前の物か」とたずねました。
男はそれではないと答えると今度は銀の斧をもってきました。「これがお前の物か」と尋ねると男は「そのような立派なものではありません」と答えました。次に鉄のボロボロの斧を持ってきました。「これがお前の物か」とたずねると「それです。私が落とした斧です。」と答えました。ヘルメスはこれを嘉(よみ)(2)して金の斧と銀の斧、男が落とした鉄の斧3つとも渡しました。
この話を自分の村でしたところ、それを聞いていた一人が自分も欲しいと思い、男の話を元にヘルメスが現れたと言われる湖のそばに行き、わざと斧を落としました。男と同じようにしばらく嘆いていると。
湖からヘルメスがでてきて、嘆いている理由を聞きました。その理由を聞いたヘルメスは前回と同様金の斧を持ってきて、「これがお前の落としたものか」と尋ねました。欲どしい男は「それです。それが私の落とした斧です。」
ヘルメスはこの嘘つき者に金の斧を与えなかったことは言うまでもなく、この男が落とした鉄の斧さえも返しませんでした。
(2)嘉するとは「よし」「善し」とするという意味。
神意は正しい事には見方をするが、正しくない事には味方をしないという解釈がされます。嘘をつくのは良くないという捉え方もできると思います。
参考
木樵とヘルメス
イソップ寓話集 173 岩波文庫
参考
世界名作童話全集
イソップ物語p71~
参考
ナビつき洋書
イソップ物語
36.Mercury and the woodman
世界名作童話全集には「金のおの」という題で載っています。小学生向けのこの本にはヘルメスのことは「ひげの真っ白な優しそうなおじいさん」ということで書かれてあります。
岩波文庫のイソップ寓話集やナビ付洋書イソップ物語には湖ではなく川として書かれています。大体の物語では湖で、あまり重要な部分ではないと感じたので、イメージしやすいため湖としました。
著 五島勉
にはヘルメスのことは女神として書いていました。イメージ的には女神として語られているものが多いと思います。
正直か嘘かという問題
この物語を語るときは、あとで出てくる欲どしい男が、自分も金の斧や銀の斧が欲しいということで、嘘をついてそれらを得ようとします。ここが非難の対象となっています。確かに嘘をつくことは良くないことですが、欲は決して責められるべきものではありません。違う見方をすれば欲に対して正直者という見方もできるわけです。
通常の欲は人を成長に導くもので、むしろ人間として健全なものです。しかし「もっともっと」という貪欲はいけない欲です。貪欲というのは貧しいと書きます。貧しい心には貧しい事しか起こりません。例えば、居酒屋でお腹がはちきれんばかりに膨らんだ中年男性が、「もっともっと食べるぞ飲むぞー」と言っているのを想像してみてください。決して幸せそうには見えないと思います。
欲はこのように良い悪いがあるので一概に悪いとは言えないということと、正直か嘘かという点に関しても何に対してかによって変わってきます。ですのでこの物語は正直者がどうとか、嘘つきがどうとかということではなく、私は違うところに注目してみました。
常に試されている
私が着目したのはヘルメスが男を試したことです。金の斧を持ち出してこれですか?と聞いておきながら3度目の鉄の斧を持ってきてそれが男のものだと知ると「あなたは正直者だ」と言っています。すでに最初の時点でヘルメスは男が落としたものを分かっていたということになります。ヘルメスは神なので当然なのかもしれませんが、これが人間であればどうでしょうか。いったい何様のつもりだということになります。
しかし、こういう試されるようなことは日常よくあります。そして見えない力が働いているという感じます。
普段寝坊はしないのに寝坊をしてしまい会社に遅れてしまった。しかし遅れたために昔の同級生と会いそれがきっかけとなり結婚することになった。
人生何が良くて何が悪いということはその時にはわからないものです。昔から病気しがちで体が弱くても、その人が医者になれば患者の痛みが分かる優しい医者になるだろうし。何をやっても続かない自分が嫌でたまらなかったが、ついつい続いてやっていることを続けたら大成功したとか。そういう話はよくあることで、全ての物事はつながっているものです。
おそらく金の斧や銀の斧をもらった男も普段はパッとしない男だったに違いありません。この男はその時だけそうだったのではなく、昔からそういう生き方をしていたのです。たとえその時に結果が出るようなことでなくても、自分が正しいと思うことをやる。間違っていれば、斧を返してもらえなかった男のように勉強させられるような出来事が起き、その時に勉強すればいいことです。
常に何者かに試されていて、その答えをひとつづつ積み上げていく。その結果の積み重ねが、この物語の始まりだと解釈できます。
見えないものというのはどう頑張っても見ることはできません。しかし見えないものをみようとする力は必要であると考えます。見えない力というのは実は自分が発しているものかもわかりません。この世の中は見えないものばかりでそれを理解しようとせず私たちは目の前の事に一喜一憂します。
善い事と悪い事
ここでの善悪は自分にとっての善悪ではなく、辞書通りの善悪です。善悪の判断が難しい場合は、やった行為そのままが返ってくると考えればわかりやすいです。自分にやってほしい行為を善、やってほしくない行為を悪とするとわかりやすいです。
善いことも悪いことも必ず清算するときが来ます。それは時間差があるだけです。善いことをしてもすぐに善いことは起きないですし、悪いことをしてもすぐにその罰が下るわけではありません。
こういうことを考えているうちに、面白いことに気づきました。
もし時間差がなく、すぐに審判が下るとしたらどうでしょうか。
善いことをしてすぐに善いことが起こるのであれば、善人しかいない世の中になってしまいます。皆善いことをするからです。
逆に悪いことをしてすぐに罰が下るのであれば、誰も悪いことはしなくなります。この世に悪人はいなくなります。
本来は善と悪ではなく善と無(何もしない)しか選択肢はないはずなのです。ところが善と無であれば実質善しか存在しないことになり、善という概念がなくなります。ですので悪がいて初めて善があるということになります。
情けは人の為ならずということわざがありますが、情けをかけることは他人のためではなく巡り巡って自分に返ってくることを言います。これらを踏まえれば善いことをするという一択になります。
まとめ
金の斧と銀の斧の物語は常に誰かに見られていて、いつかすべてを清算するときが来ることを教えてくれています。
自分にしてほしいことを他人にしてあげることが、巡り巡って自分のためになります。