考え方

カエルと牛に学ぶ。たくさんの解釈が生まれる理由

2020年1月21日


イソップ寓話は絵本にもなり子供たちの教材として使われています。物語によっては国々で少し改変され、その国の教育に利用されていたりします。カエルと牛を読んでいて、あまりにもいろいろな違っていることがありましたので、それについて見ていきたいと思います。

ここではカエルと牛の物語の解釈というより、どうして表現の仕方が違うのかということについてお話ししたいと思います。

話の流れ

この物語は「カエルと牛」や「牛とカエル」という題名で日本では子供たちに教えられています。
世界名作童話全集12,イソップ作。という子供たちの読む本には「かえるとうし」という題名で載っています。

本によって少し中身が変わっているのもありますが、話の筋はどの本も同じです。ところが、言葉を消したりすると解釈が変わってくるところもでてきます。

ある日2匹の子供のヒキガエルが池で遊んでいるときに、牛が水を飲みにやってきました。その時母カエルは外出していました。子供のヒキガエルが一匹その牛に踏みつぶされて死んでしまいました。外出から帰ってきた母カエルは兄に弟の居場所を尋ねました。

「死んでしまったよ。ついさっきすごく大きい四つ足のやつがやってきてそいつに踏みつぶされてしまったんだ。」
母ガエルは息を吸って自分の体を膨らませながら
「これくらい大きかったかい?」
と尋ねたが子供たちは
「ううん。もっと大きかったよ。」
それに負けじとさらに大きくして
「これくらいかい?」
そして子供たちは
「そんなもんじゃないよ。もっともっと大きかったよ。」
母ガエルは更に体を膨らませます。
「これならどうだい。これくらいかい?」
母ガエルはもっと大きく見せるため力みましたが、その瞬間おなかが破裂してしまいました。

参考
イソップ寓話集(岩波文庫)
376自分を膨らませる蟾蜍(ヒキガエル)

には牛が水を飲んでいてヒキガエルの赤ん坊を踏みつぶしてしまったと載っています。

参考
ナビ付洋書
ウソップ物語
43The Ox and the Flog

ナビ付洋書には、最後に「then she burst」お母さんガエルは破裂したと載っています。

物語の解釈

カエルと牛の物語は「頑張りすぎると良くない」とか「身の丈に合わないことはやらない」などの教えがあると思います。子供用の本には1匹の子供のヒキガエルが踏みつぶされたことは載っていません。さすがに残酷で載せることができないのでしょう。しかしこの部分を入れるのと入れないのとでは少し解釈が変わってきます。

わが子が死んでいる事に目にもくれず、自分の事しか考えていない母親の心理というのは、人間をよく反映していると思います。「今それどころじゃないだろう!」ということです。

世の中どうでもいいことが多いです。ちょっとした変なプライドや見栄によって何かが失われることがあります。それは社会的地位であったり、友情であったり、夫婦の仲であったりです。自分にとって何が大切なのか、普段私たちは自分の正義に従って行動しますが、一時の感情で失うものの大きさを考えると明らかに損なことがあります

色々な解釈があることについて

こういう物語は世界の国でそれぞれ都合のいいように変えられ教育として使われています。教育とは洗脳で、その国で生きていくための知識をつけるものです。正しいとか間違っているとかは関係ありません

このカエルと牛という話も、お母さんがお父さんになったり、子供が「膨らむ親」を見てやめるように諭すところがあったりなかったり、最後におなかが破裂するところがあったりなかったり。牛の真横で体を膨らませて牛が無視をするというそんな話もあるようです。とにかく物語というのは作る人の思惑があり、そこに詰め込まれているものです。

小さい子供に何かを教えるときには、物語に詰め込むことで子供が理解しやすいというメリットがあります。そして何気なく思想の中に潜り込ませることができます。私のように何かほかに意味はないのかと考える人の楽しみを作ってくれているというのもあるのかもしれません。

イソップ寓話で話を変えてあるのは牛とカエルだけではありません。そもそも今残っているイソップ寓話はイソップが作ったと実証できるものはありません。(イソップ寓話集より)みんなこれを利用して、伝えたいことを後世に伝える。そこには何か公にできないものがあるかもしれません。ただ単に難しいから分かりやすくするということかもしれません。単純に面白いからかもしれません。いずれにしても書いている人が意図を思ってやっているということは確かです

自分の子供に伝えるときなどは、どう教育するかで話の内容を変えればいいわけです。何も本屋さんで買ってきたものを、そのまま読み聞かせる必要はありません。

今回のカエルと牛でいえば最初に子供が踏みつぶされたところも話せばいいのです。エグイ話ですが、エグイと言えばいくらでもエグイ話はあります。例えば今日の夕食は「しゃぶしゃぶ」だったとします。それは牛が屠畜(とちく)されて今目の前の食卓に上がっているわけです。それは知るか知らないかの話で、すでに現実に起こっている話です

現実に起こっていることを知らないでいいこともありますが、自分に関わることは知っておいて損はありません。知れば何かしら考え方の変化が起こるかもしれません。考え方が変われば、生き方も変わってくることと思います。それを含めて話す側が取捨選択すればいいということです。

誰のための寓話か

冒頭で子供に教える教材としてイソップ寓話が使われていると書きました。しかし、ものの見方によっては逆になります。子供に「身の丈に合った・・・」「見栄を張るのは・・・」うんぬんかんぬん言ったところで理解できません。子供のためのものとして親が読むわけです。大人が子供に読み聞かせるときにその意味を把握するわけです。ですので、こういう物語は実は大人を教育するためのものであるということが言えるのではないでしょうか。

そこで新しい気付きが生まれ、大人を導くためのものではないか。そう思うのです。

最後に

話には何か伝えたい裏があること考えて読むとまた違った気づきがあるのかもしれません。

  • この記事を書いた人

宮野 功次

1986年1月8日生 健康・生活に関する役立つ知識や情報を発信していきます。 鍼灸師・柔道整復師 /コメントいただけたら喜びます。

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