驕慢になるということはなかなかないように思いますが、意外と日常にありふれています。特に何も問題がなければいいのですが、そこそこの良くない理由があります。それを分かっているのと分かっていないのとでは、自分の周りに起こる出来事も随分と変わってくるように思います。
そもそも驕慢とはいったい何なのか。なぜ良くないのか、良いところは全くないのか、どうすればいいのかなど考えてみました。
結論を言うと驕慢の一番良くないところは、自分の成長がストップすることです。
目次
驕慢とはどういう意味か
驕慢とは
おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること。また、そのさま。
引用:デジタル大辞泉
この意味を見ただけで「嫌な奴」という感じがしてきます。
人の事を自分より下だと見下すような態度をとってくる人を好きになれるでしょうか?大多数の人間は誰かに認められたいという欲求があります。それとは正反対の事をされるわけですから気分がいいわけがありません。
人を見下す人というのはおそらく「出来る人」だということが言えます。勉強でいえば出来る人が出来ない人を見下すことがありえますし、仕事でも出来る人ができない人を見下すということがあります。逆に出来ない人ができる人を見下すということは理にかなっていませんので有り得ません。
驕慢になる人はこういう人
自信があるということは良いことです。自信は物事をやりきるうえで必須の要素です。しかし自信が過剰になると驕慢になりやすくなります。
驕慢になる人は、努力をして何かを出来るようになった人です。
もともとできる人よりも、初めは出来なかったが「そこそこの努力」でできるようになった人が驕慢になり易いと言えます。すごく苦労をして出来るようになった人は、逆に出来ない人の事を分かるため驕慢になりにくいです。
それは出来ない人を見下すということをすると、過去の自分を見下すことになるからです。
過去を否定すると自動的に現在が否定され、現在の積み重ねである未来をも否定することになります。
一方で驕慢な人は過去の自分を忘れてしまっていると言えます。それは少しの努力でできたからなのでしょう。そこには自分以外の他の協力があったはずです。「自分一人でやったんだ。」などと言うことはこの世には存在しません。一人で生きてるような人であっても一人ではありません。生きている時点で一人ではないのです。
例えば、一人で生きていると豪語する人も、食べ物を食べるでしょう。スーパーで買い物をしたり、外食したりすると思います。それは売ってくれる人がいて初めて成り立つものです。野菜や果物など作ってくれる人がいて、それを運ぶ人がいて、それを売る人がいるから買うことができるのです。要するに売っていただいているわけです。ですのでこれ一つにとっても一人で生きていることなどないことがわかります。
住まいにおいてもそうです。賃貸であれば貸してくれる人がいるからこそ借りれるのです。持ち家も同じです。どこかの国では家を持つことすらできません。そして今通っている道路は誰が舗装したのでしょうか?道路がなければ食材を運ぶことや人を運ぶことなど様々なところに影響が出てきます。すべての人は大なり小なり影響しあって生きています。関係ない人などこの世には存在しません。それを忘れると驕慢になり易いということが言えます。
ですので驕慢になっている人は他人の事もわからない、更には自分の事もわかっていないことになります。結果無知であるという結論になります。
自分はここまでやったんだから、少しくらい変なことをしても許されるんだ。
人を見下す前の段階です。この傾向にある場合は注意が必要です。こういう思いは「頑張り屋さん」であれば結構な人が体験しているのではないでしょうか。
この延長線上に人を見下すという行為があります。
驕慢になってはいけない理由
ここでは2つ驕慢になってはいけない理由を挙げます。
人に嫌われる
皆さんは驕慢になって自分を見下す人は好きですか?ほとんどの人が嫌いと答えると思います。
どうして人に嫌われると良くないのか、それはいろいろなところで協力を得られなくなるからです。会社であってもそうです。「いや、従業員には給料を払っているからそんなの関係ない」という声が聞こえてきそうですが、それは的が外れています。
お金を支払ってやってもらうのは業務です。その人は常に何かを思い仕事をしています。ロボットでない限りなかなか無の境地で仕事をしている人はいないのではないでしょうか。そこの気持ちにポジティブな感情があるのとネガティブな感情があるのとを比較した場合、明らかに前者の方が優れているわけです。これは不思議な話で議論をすることができないですが、良くなってほしい、頑張ってほしいなど気にかけてもらえる会社や個人は栄えたり良い方向へ向かうものです。
更に今はすべての国が豊かなりつつあります。この先はお金を払ったからと言って人が動いてくれない世の中になるのではないでしょうか。それは感情の賛同も必要な要素になってくるということを意味します。実際にお金持ちと言われる人たちは大金を積まれても嫌いな人とは仕事をしないとか嫌なことはしない人が多いといいます。これは考えれば当たり前の話で、お金があるから、そこへの比重が軽くなっているためです。
何をするにも一人でやっているなんてことはなく必ず協力してもらえる人が必要になります。そんな時に嫌われていたら、誰からも協力は得られません。
近年、「嫌われる勇気」という言葉がよく聞かれます。これはあまりにも周りを気にしすぎて自分の想いを伝えられない人や、そのことによってその人自身が不幸な道を歩んでいる、そういう人達に向けた言葉です。この言葉が独り歩きをして、嫌われることがあたかも素晴らしいような解釈がどこかあるような気がします。しかしそれは嫌われたら、何事も前に進みにくいということを分かったうえでするものです。
同じ言葉でも意味のある言葉となる人とならない人がいます。このブログでも「友達は必要ない!」という記事を書きました。一方で「友達を大切にするべき!」という記事も書いています。言葉だけをとれば真逆のことを言っていますが、どちらも私は正しいと思っています。それは人それぞれ違うという動かない軸があるからです。
私は今この記事を書きながら、「嫌われる勇気を持つべき」という内容の記事を書こうと思いつきました。それは人それぞれ違うから、その人に合った言葉が必要なのです。何事もバランスが大切で、表面だけで判断しては自分が損することになります。
成長がとまる
上の嫌われるということと重なりますが、人から嫌われれば協力者も減り、自分のやりたいことや目標へのスピードが遅くなります。
さらに驕慢になると自分が偉くて人は自分より低いという考えなわけですから、成長しようという気すら起こりません。もしかしたら驕慢になっている人は自分が上がる事よりも人を下げる方に力を使うのかもしれません。
人の価値を下げようとする人は必ず自分の価値も下がります。そうなると成長が止まるどころか、後退してしまうことになります。
成長とは学習とも言えます。生きていれば様々な失敗をすることになります。失敗をしないということは何もしていないのと同じです。何かをすれば必ず失敗するわけですが、それを糧にすることで成長できます。
しかし驕慢であれば自分が基準となり、学習することはありません。よってそれ以上の成長は見込めません。頭が固くなり思考が停止し、周りの環境が変わってもそれに気づくことができず自滅していきます。
成長していく人生がいいのかそれとも成長をストップさせる人生がいいのかは、それぞれ個人が決めることですが私は成長し続けることを選びます。なぜなら成長して変化すれは感動を味わえるチャンスが増えるからです。同じ言葉でも感じ方が変わり、何度も生まれ変わったような気分になります。これほどお得で楽しいことはありません。