隠れて努力をすることは日本人の美学としてあります。しかし、努力をアピールすることはなんら恥ずべきことではありません。今回は「努力をアピールする」ことをテーマに考えてみました。
先ず確かなことは、努力と感じている時点で、向いていないということです。ずば抜けた結果を残せない場合、アピールをして最大限の効果を発揮することに意識を向けるべきです。むしろ現在は、質はそこまで高くなくともアピール力さえあれば、高品質のものを凌駕する様な時代です。
少し詳しく見ていきます。
目次
そもそも努力する必要はない
そもそも努力というのは一体何なのか、人それぞれ定義が違います。世間一般言われている努力は、歯を食いしばってつらいことを我慢して何か事に当たるイメージがあります。
小学生の頃から、歴史上の人物や有名人を題材にして、努力がいかに素晴らしい事かを教えます。努力が素晴らしいと教えることで、忍耐力がつき、大人にとって子供をコントロールするという点で都合が良かったからです。しかし、実際に我慢に我慢を重ねる努力というものは、本人を不幸にするためするべきではありません。
ここで努力という意味をもう一度見てみたいと思います。
努力とは、目標を掲げ、そこに到達するために邁進することである。
引用:wiki
心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。
引用:大辞林 第三版
自分の意志によって、身体的にも精神的にも目標に向かわせ邁進すること。ということができます。こう考えると大人になっても努力は必要なことであると言えます。
努力は我慢に我慢を重ねてするものではなく、楽しくするものであるということです。結局楽しくなければ努力は続かないからです。継続できるものでなければ、成果も表れにくく、目標に到達することはできません。
昔は隠れて努力し、結果を出す。というのが美学とされていました。もちろん今でもその美学はあるでしょう。結果を出した人はすごい努力をしていたと思われていた時代です。
ところがものすごい結果を出した人、いわゆる成功者と呼ばれる人はそこまで努力はしなかったといいます。努力話というのは、一般的に盛り上がるためそういったものを作り上げて書籍や言い伝えになったというのが本当のところです。あと努力を教材にすると、子供に対して教育がしやすいということがあったのでしょう。本人は努力したという感覚は無いと言います。
今も昔も本質は変わっていません。現在は若くして成功を収めている人がたくさんいます。その人はというと、おそらく努力はしていなかったと思います。周りから努力だと思われているだけで、実は楽しんでやっていたというのが本当のところではないでしょうか。昔の人は努力=苦労だとおもているため、努力せずに成功した若者の事を面白く思わない人もいます。
そもそもその考え方が間違っていて、努力はするものではないのです。努力と思っている時点で、その分野では一生芽が出ないのだと思います。そういう努力を隠れてするのは今の時代に反していて意味がありません。
我慢に我慢を重ねる努力が成り立っていたのは、終身雇用、年功序列というシステムの上での話です。大きい企業では年功序列で年齢を重ねると能力がなくても給料は上がっていったといいます。今は男女関係なく、能力があれば認められる時代です。逆に能力がなければ、年齢を重ねても認められることはありません。その結果、年上の部下をもつということは良くある話です。
黙っていて、自分の能力を魅せることがなければ、存在しないのと同じことです。アピールすることは自分を魅せることです。「努力は隠れてする」「隠れて努力をする」という言葉自体が古く、誤解を招くものであると感じています。
アピールするメリット
アピールすることで周りからの評価が上がります。他人の評価が高いのと低いのとでは、自分に及ぼす影響も変わってきます。むしろアピールしないとデメリットがある、という方が正しいのかもしれません。少し例をあげます。
中学の時に英語の授業で英文を訳す宿題を授業中に答え合わせをするという授業がありました。結構な量で私は最後の一文以外はすべて訳してあり、最後の一文だけやっていませんでした。厳密にいえば「やってない」のではなく「分からなかった」のですが。
そして授業が始まり、最後の訳していないところが私に当たりました。私は言い訳をせずにやっていませんと答えました。なぜか先生はすべてやっていないと勘違いし、私はみんなの前で執拗に叱られました。普通に「分からなかった」や「他はやっていてそこだけ分からなかった」などとアピールすればよかったのですが、言い訳するのは良くないと教わっていたし自分でもかっこ悪いと思っていたので、特に何も言いませんでした。
結局それからその先生の事は嫌いになり、英語も嫌いになってしまいました。よっぽど英語が好きでない限りそんなもんです。私にとって英語というのはその程度のものであったため、英語に取り組む姿勢というのは努力せずには取り組むことができませんでした。
もしあの時私に変な先入観がなくアピール力があれば、努力だけは認めてくれて意味のない叱責を受けることはなかったことでしょう。そして英語や先生を嫌うことはなかったのかもしれません。先生や科目が嫌いになってしまえば学校という場所は地獄です。学校へ行ってしまえば逃げることができません。自分の得意なことでも好きでもないことを無理矢理させられる場所、ただそれだけの場所に変わるのです。
仕事の場合、アピールをしない場合、例えば仕事の進捗度の報告などをしない、ということにつながります。報告や連絡は別だろう。と思う人もいるかもわかりません。しかし普段からアピールしない人は、結果でのみで魅せようとするため、報告をしないことが有り得ます。報告するように指示をしていない限り逐一報告はしないということになります。そういう部下がいる場合、普段からコミュニケーションを取っておく必要があります。
アピールするデメリット
大人になって努力をアピールしているようでは成長はできません。その分野での成長が出来ないという意味で、アピール力や宣伝力、プレゼン力などは身につくことになります。その道で成果が出ないからと言って今すぐに仕事を辞めれる人は少ないです。
本来は努力と感じないことを仕事にするべきですが、それまではアピールをして小さい結果でも大きく見せれるようにします。
もう一つデメリットを挙げるとすると、アピールが下手な場合、鬱陶しがられます。自分の出した結果以上のアピールをするわけですから、そう思う人がいてもおかしくありません。
しかし、世の中を見渡してみると、アピールのうまい人が影響力を持ち、人を集め、お金を集めています。商品に関してもそうです。良い商品だからといって売れるものではありません。どのように売り出すか、アピールするかが重要なのです。質は二流でも一流のアピール力があれば質が一流の物よりもたくさん売ることができます。
今の時代、努力をアピールすることは、なんらおかしなことではありません。
まとめ
努力を見せることは、アピールをするということです。
現代アピールできない人は、生きていくには難しい時代です。どれだけ能力があろうとも、自分を売り出す能力がなければうまくはいきません。だれの目にとまることもなく、存在しないことと同じになります。
どれだけいい商品があっても、アピール力や発信力がなければ手に取ってもらえません。むしろ今は能力や質がないけどアピール力だけである程度うまくいく、そういう時代ではないでしょうか。結局はアピール力も能力の一つということなのかもしれません。